こんにちは。天晴れ代表の拓也です。
最近久しぶりに長年入居して家族同然として暮らしていたメンバーが結婚することになり、退去することになりました。
2年以上も一緒に暮らしていると、もはやそこにいるのが”当たり前”になるもので。そんな大切な友人が離れてしまうことは、まさに当たり前の喪失。10年以上シェアハウスを運営していても、別れの切なさだけはいつまで経っても慣れません。
でも、出逢いも別れもあるのがシェアハウス。
そんな強がりと共に、少し気持ちを切り替えて、話題は新メンバーとの出逢いの話をしてみます。
「こんな人が来てくれたら嬉しいよね」
「次に住む人は、どんな人がいいかね?」
別れを見送って数日。そんな会話が数人でありました。
その内容がけっこう面白かったのでみなさんにも紹介しますね。
「どんな人に来て欲しい?」の答えとして、今回は3つの特徴が上がりました。
それは次の通り。
・コミュ力のある人
・単純に「良い人」
・友達がいるひと
ふむ、なるほど。けっこう当たり前のことを言っているようなんですが、”当たり前”って案外難しいものです。ひとつずつ見てみましょう。
コミュニケーションができることは、当たり前じゃない
「コミュ力のある人」を定義するには、「コミュ力のない人」を想像してもらうのが簡単です。コミュ力がないと聞いて、まず何を思い浮かべるでしょうか?コミュ力のない人はきっと、
・空気が読めない
・言いたいことや話の趣旨が伝わらない
・緊張しすぎて一言もしゃべれない
・ボキャ貧だし頭が悪いからうまい言葉が出てこない
・よく噛む(笑)
なんかが思い付きます。
では、この逆だったらいいのか?と問われると、またたびでは”NO”なんですね。
ここで着目してほしいのが、上記であげた例は全て「しゃべる側」に注目しているということです。
そう。コミュニケーション能力とは、話す能力だけではありません。「聞く側」の力もあるのです。いい感じに話せる能力はそれはあったほうがもちろん良いです。しかし、今回の文脈で言うところの「コミュ力のある人」とは「話を聞くことができて、話がちゃんと伝わる人」という意味のほうが強いですね。
「言葉」と「気持ち」
コミュニケーションとは、日本語で言うところの「意思疎通」です。
それは自分の気持ちや考えていることが、きちんと相手に伝わることです。
そして、相手の気持ちや思っていることを誤差なく自分が理解できることです。
どちらが難しいかと言われると、本当はどちらも大変難しいのですが、個人的には「相手の気持ちや思っていることを誤差なく理解する」ことのほうが難しいと考えます。
僕のシェアハウスの師匠的な人は、かつて僕にこう言いました。
「あのね、拓也。”相手の言っていること”じゃなくて、”相手が言おうとしてること”を聞くのが本当のコミュニケーションだよ。」と。
相手の言っていること。
それは、”言葉”です。
相手が言おうとしてること。
それは、”思い”であり、”気持ち”です。
相手の言葉を理解するのは、ある程度日本語が喋れればできますが、相手の”思い”や”気持ち”をきちんと理解するのは大変です。なぜなら、相手が喋っている言葉そのままが、いつも相手の思いや気持ちをそのまま表すとは限らないのですから。
相手の思いや気持ちを誤差なく理解でき、受け取れる人というのは大変稀です。僕もそんなに思い浮かぶ人はいません。
また逆に、自分の思いや気持ちを自分で完全に理解していて、それを言語化し、的確に相手に伝えることができる人というのも、そんなにいるものではありません。皆、実際は自分の考えや気持ちなど、案外自分でもわかっていなかったりするものですから。
「下手でも一生懸命やと、伝わるもんやなぁ」 by松本人志
ただここで大事なことは、「完全に理解すること」でも「完璧に伝えること」でもありません。大事なのは、「理解しようとすること」です。つまり、”姿勢”です。
「この人は、自分のことを理解しようとしているのか?」
「この人は、自分の都合の良いように私の思いを解釈していないか?」
「この人には、自分の気持ちは伝わっているのだろうか?」
話し手とは、真剣に語れば語るほど、いつもそんな気持ちになるものです。
その気持ちとは”不安”です。
だから、言ってほしい言葉は
「大丈夫だよ、ちゃんと伝わってるよ。」
「あなたの言いたいことは、こういうことだよね?合ってる?」
「全部はわかんないかもしれないけど、私なりにがんばって理解しようとしてるよ。」
という”安心”や”確認”をを示す言葉だと思います。
これが、女子高生同士が話す「わかる〜〜」です。(偏見)
人の気持ちって、理解するの難しいですよね。当然です、違う人間ですから。
それでも、違う人間同士だとわかったうえで、お互いを理解しようと試みること。自分から、相手の方へと歩み寄ろうとする姿勢こそが、コミュニケーションにおいて最も基本であり、最も大切なことなのです。
まとめ:またたびの思うコミュ力のある人とは
まとめると、またたびの「次に住む人、どんな人がいいかね?」の答えである「コミュ力のある人」とは、
「自分の気持ちや考えをできる限り伝えようとしてくれる人」であり、また「相手の気持ちや考えを、どうにかこうにかがんばって理解しようとしてくれる人」のことです。
特に、後者ですね。
人は、「わかってもらえる」と嬉しい生き物なので、「わかってあげること」がすごく大切です。わかってあげるためには、相手への興味関心を持つことも大事ですし、相手の言動に対してすごく注意を払う必要があります。
そんな大変なことをするのは、その相手が自分にとって「大事だから」です。大事じゃない人間に対して、わざわざそんな大変なことをする人はいません。
だから逆に、そこまでしないということは、その相手は自分にとって「そこまで大事じゃない」ということです。一緒に住んでいる人間で、「本当の家族じゃないけど、家族みたいに仲良くなっていこうよ」というコンセプトのシェアハウスに住んでいる仲間なのに、「そんなに大事じゃない」って思われてたら悲しいですよね。
長くなって2章に分けようかと思ったけれど、ここまで読んでくれたあなたを信じて一気に書くことにする
コミュ力の話をしていたつもりが、いつのまにか関連して興味関心や大事さの話になってしまいました。ですが、興味関心とは言い換えれば「愛」、大事さとは「リスペクト」なので、「たかがコミュニケーションだと思っていたことが愛情やリスペクトに繋がる」という
話になりますね。大事なことなので、少々長くなってしまいました。
男性にとってのコミュニケーションが「情報伝達」の意味が強いものでも、女性にとってみれば「気持ちの確認」という意味が大きかったりするので、そういう違いも面白いものですね。
さて、短くまとめるつもりがやっぱりコミュニケーションについて語ると長くなってしまいましたので、次へと移りましょう。
「ウマ娘見て、泣きました」って言える人はたぶん”良い人”なんだ
「”良い人”と書いて”どうでもいい人”と読む」なんて言葉もありますが。
ここは至ってシンプル。
「人間として、根が良い人」のことです。
違う例を挙げるなら、
「”表面上は”優しい人」や「”ふだんは”おとなしい人」なんかがそうですね。表面上という言葉、とてもぞわっとします。あとは「”笑顔は”素敵な人」とかも嫌ですね。(笑)
表面なんかどうだっていい、は流石に言い過ぎですが、実際問題長く付き合ったり関わったりするならば、その人の外面部分よりも内面的な部分のほうが重要です。
表向きよりも、その人の本質が「善」であることのほうが重要です。
僕は性悪説や性善説などの二元論はあまり好きではないのですが、最近の僕の例で言うなら「ウマ娘見て、泣いた」という人は「善」でいいんだと思います。(急な暴論)
人のがんばっていることを認められたり、人の夢を笑わなかったり、誰かの大切にしているものをできる限りこちらも大切にしようと思えたり、誰かが傷付いたり困っていればできる範囲で助けようとしてみたり。できる範囲でいいので、そんな”気持ち”を持っていることが大事ですね。
またたびは「あったかいコミュニティ」を作っていますので、ハートがあったかい人のほうがおすすめです。
知り合いが100人いることよりも、振られた日に一緒に泣いてくれる友達が1人いればいい
ここで言う「友達」とは、「自分の内面や気持ちを曝け出して、相手のそういう部分も受け止めていて、良いところも悪いところも互いに知っていて、深い繋がりとして素で付き合える友人」という意味です。
世間で言うところの「親友」とか「心友」とか言うやつかもしれません。
(やはりここでジャイアンが浮かんでしまう…笑)
逆を述べるならば、「都合の良い関係」とか「インスタントな遊び友達」でしょうか。
今回の「友達がいる」というのは、「都合の良い関係」が100人いようと1000人いようと関係ありません。たったひとりでいい、「心の底からぶちまけあえて笑い合える大切な友人」がいることのほうが圧倒的に勝ります。
これは僕の個人的価値観も多分に混ざりますが、僕という人間は「1年生になったら〜友達100人できるかな〜」を素直に信じるピュアなこどもでした。
ですが今は
「100人とか1000人とかいらないからさ。永遠とか言わないからさ。たった1人でもいい。10年でも20年でも繋がってみせてよ。」
とか旅人のような目をして空を見つめたりしています。(隙自語)
人間の幸福度は、人間関係で決まる
カーネギーメロン大学だかどこだか忘れましたが、人間の幸福度というのは、究極的には「人間関係」で決まるのだそうです。簡単に言うと、「幸福かどうかは、友達がどれだけいるかで決まる」のだそうです。
「孤独死」という言葉があるように、孤独感は死に勝ることを考えれば、想像は容易です。
友達の必要数は人によって違うのでしょうが、多くの人は10人もいらないのでしょう。
「友達がどれだけたくさんいるか」を語れる人よりも、「その友達とどれだけ深く笑い合えたか」を10時間語れる人のほうが、僕にはとても魅力的に写ります。
またたびは、”家族づくり”というコンセプトの場でもありますが、簡単に言ってしまえば”友達づくり”の場でもあります。しかし安易な友達ではなく、できれば「ひょんな出会いだったけど、一生付き合っていける友達」ができるといいなぁと思っています。
人との関わりとは、簡単なようでいて、とても難しいものでもあるので、出来れば学生時代や人生を歩んできた中で、胸を張って「友人だ」と思える人がいる人が来てくれたらいいなぁと感じました。
もちろん、コミュニケーション編で述べたように、大事なのは”姿勢”です。
ですから、もし仮に今、「友人だ」と思える人がひとりもいなかったとしても、痛切に「そんな友達をつくりたいんです…!」と思っている方なら、ぜひ見学に来た際にその気持ちを伝えてみてください。熱心に聞かせていただきます。
ここまで読んでくれた人は友人です
さて、最初に想像していた5倍ほど長くなってしまいましたが、これにて今回の「またたびに来て欲しい人はこんな人3選!」を締め括ろうと思います。
長文に最後までお付き合いいただきありがとうございました。
ぜひ、シェアハウス見学の際にお会いできるのを楽しみにしております。